物理学科進学の是非
執筆日: 25.05.18
在籍者の所感
正直いばらの道になることは否めない。 理由はシンプルで、就職市場において物理出身の人がそれほど高く評価されているとは思えないからだ。 ほとんどの人にとって、大学は就業準備所であり、就職するための学歴づくりやソフト・ハードスキル向上の ための場であると考えると、就活時にほとんどの職業にベストマッチしない学科を選択する優位性がない。
そんなわけで、私は将来この職に就きたいという目的で物理学科に入学してくる学生に出会ったことがない(研究者を除く)。 私は研究者に憧れがあって物理学科に入学したし博士課程にも進学したが、では周りにそのような学生が多かったかと 言われるとそうではなく、修士課程に進学する割合は9割くらいだが、そのうち博士課程にも進学する学生は1割程度である。 さらに博士課程修了後にアカデミアの道に進む人の割合も特段高いわけでもなく、私の周囲の博士課程学生のほとんどは 企業への就職希望者だ。
まとめると、物理学科は企業とのマッチングが上手くいかない学科であるにも関わらず、ほとんどの学生が企業への 就職を選択する学科である。 おそらく入学時は研究者を志す割合は、最終的に研究者になる割合に比べてかなり高い水準となっていることが予想されるが、 入学後に天才的な教授や友人に出会ったり、労働基準法が機能していない研究室生活に身を投じたことにより、 自分の人生をここには捧げられないと思う人も多いのであろう。
第一原理
物理学において、第一原理1は非常に奥深い意味を持っている。 著名な起業家であるイーロン・マスクは、途中で休学することになるが物理学の専攻者であった。 彼は第一原理の考え方を自身の事業経営でも使っていると言っている2。 複雑な物事を要素要素に分解しながら、その本質的な側面を抽出し、抽出された抽象的なフレームワークをもって あらゆる現象に対する解釈を再構築していくわけである。 このような考え方のスキームは、私にとって非常に自然で無意識的に行われる思考であるが、それはおそらく 物理学科という特殊な環境下に長年身を置くことで培われた思考法なのだと感じる。
物理学科の学生にとって、まず最初に第一原理の思考法を強烈に実感する瞬間は、解析力学の授業ではないかと思う。 ニュートンの古典力学を座標系に依らない形で一般化した形式には、多くの学生が感動したものと勝手に想像するが、 その一般化の結晶として色褪せず輝き続けているのが第一原理が最小作用の原理である。 我々が対象にする物理学の現象は、最小作用の原理から延びる枝葉の先に過ぎないと実感したとき、 逆にどんな問題であってもこの偉大な第一原理に則って考えれば、その真相に迫れるはずだと実感するに違いない。
ここでもう少し視野を広く持ってみれば、物理学が対象としているような自然現象だけでなく、 人間が社会で直面する問題に対しても第一原理的な法則が隠れているのではないかと疑問に持つだろう。 つまり、最小作用の原理が物理学のあらゆるケースに統一的なフレームワークを与えたように、 社会問題に対しても有効な第一原理が存在し、それを適用することで物事の解決に挑むことは出来ないかということである。
物理学者は3か月で第一線に到達しなければならない
この言葉は私がどこかで聞いた言葉である。 誰が言ったのか、どこで聞いたのかはさっぱり覚えていないが、この文言だけは覚えている。 改めてみると大分乱暴な主張ではあるが、私の中ではその真意を「物理学者はいかなる問題に対しても 取り組める能力がなくてはならない」と解釈している。
この言葉を鮮明に覚えている理由は、祖母が小学5年生の私に言った「何でも出来るようになりなさい」という 言葉に通ずるところがあったからだ。 これもまた乱暴な言葉である。 そんなことが簡単に出来ればどんなに嬉しいことか。 ただ、この言葉の真意は「物事の本質を捉えどんなことにも対応できる力を持ちなさい」ということだと感じた3。 どちらの言葉も共通していることは、どんな問題に対しても1つ1つ分解しながらその本質に迫り、 その本質から問題を再構成する力が必要だということだと思う。
このような能力のことを何というのか私はわからないが(モデリング能力とでも言うかもしれない)、これこそが物理学を 学ぶ人たちの持つ強力なソフトスキルなのではないかと思う。 しかし残念なことに、こういう物理学の思考のフレームワークは世間的に浸透しているかと言われるとそうではないと思うし、 私自身が就活をしながら色んな企業の人事の方と話しながらも、採用のスペシャリストの間でも特段それを理解している 人は多くないと感じる。 また、学生たちに物理学を教える大学教員側も、自身の持っている強力なソフトスキルを当たり前すぎて認識していないのか、 学生たちに授けるものであると理解している人は少ないと感じる。
コンサルやデータサイエンティスト適正
上述したような第一原理的な思考のフレームワークを有している場合、その格言通り3か月で第一線に到達できるのであれば、 就活市場の中で物理学者のマーケット価値が高いのはコンサルやデータサイエンティストな気がする。 これらの職種は多様な案件を扱いながら、相当なロジカルシンキングも求められる仕事であり、これは物理学者の 得意とするところだろう。 実際周りの学生でもコンサル志望は一定数いて、きっと活躍できるのではないかなと期待している。 データサイエンティストに関していえば、AI 研究をしていた人を優遇したり、学生時代にビッグデータ解析を行っていた 経験のある学生を優遇するケースが多いようだが、個人的には物理学修士程度の学生であればそれらのハードスキルは 冗談抜きで2~3か月でキャッチアップ出来ると思われる。 だが、貴重な新卒枠ではずれくじを引きたくない企業にとっては、十分に信頼性の高い他学科の人材を採用する方が リスクが低いと考える気持ちも十二分に理解できる。
物理学科を志す人たちへ
特定の企業に就職したい場合はおすすめしない。 なぜなら、企業に就職するためにはその人事担当者に自分がその企業で価値を創り出せることをアピールする必要があるが、 そもそも物理学の魅力や第一原理的な思考のフレームワークを理解している人は少ないので、 アピールしても骨折り損になるケースが多いからである。 それならハードスキル的に親和性の高い専門分野に進んだ方が、どう考えても近道だ。
そんな近道を嫌うちょっと頭のおかしな君は物理学科向きだ。 道は便利だ。 作ってしまえばその道に従うだけでたどり着ける。 でももっと重要なことは、どうやって道を作るかだ。 作られた道は、ある点と点を結ぶ曲線にすぎない。 そのような曲線は無限に作れるし、別の点を選ぶこともできる。 そんないろんな道を作ることが好きな君には物理学科は良い選択肢になると思う。
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個人の肌感覚だが、物理や数学出身ではない方に第一原理という言葉を使っても通じないと思う。 ↩
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https://www.inc.com/jory-mackay/how-elon-musk-used-this-simple-mental-strategy-to-build-2-billion-dollar-businesses.html ↩
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もちろん本当のところは彼女に聞かないとわからないし、おそらく言った当人は覚えてもいない。 ↩