師の教え - 数学を使えるとはどういうことか
執筆日: 25.10.12
母校への帰還
最近様々な理由で地元に帰ることが増えた。 これまで、地元に帰ることは年に2, 3回で、期間もかなり限定していたので、再開する人も概ね限られていた。 しかし、最近は地元に帰ることが増えたことで、色んな馴染みの顔に出会うことが増えた。
先日、母校の高校に顔を出す機会があった。 高校時代にお世話になった先生を見つけ、声をかけずにはいられなかった。 そのうちの一人は、高校時代の理系クラスの数学の先生だった。
その先生は、私を含めそこにいた友人の顔は覚えていなかった。 しかし、私たちにとっては、数学に対して情熱的な先生であった印象は色褪せていなかった。 私はその先生に、あなたの教えた学生の何人かは、まだ博士課程にいるとだけ伝えた。 進学校でもなく、ましてや大学に進学する学生もマジョリティではない高校で、そのようなことが起きていることを伝えることは、私にとっての1つの感謝の表現であった。
数学を使えるとはどういうことか
私は今でもその先生の授業中のある発言を覚えている - 「数学を本当に使えるようになるためには、大学で4年間数学を勉強しても足りない。私は数学科を卒業したが、数学を使えているかどうかはわからない。」 今になって振り返れば、その発言は非常に示唆的であった。
当時の私たち学生にとって、数学とは科目であった。 それは、定義、定理、証明、計算方法を学び、問題を解くことであった。 定められた教育課程の範囲内で、与えられた問題を解くための道具であり枠組みであった。 ほとんどの場合、それはそこから逸脱することはなかったし、私たちの生活圏とは別世界であった。
しかし、本来数学という大きな理論体系は、私たちの生活や思考の中に深く根ざしているものである。 古代エジプト人は、ピラミッドを建設するために幾何学を発展させたことはよく知られているが、本来数学という言葉は後からつけられたものである。 数学が先にあり、それを理論体系として学習する現代人とは、辿る道順が真逆である。
それを踏まえた上で、先生が言った「数学を本当に使える」ということの意味は、数学を現実世界で直面した問題の解決に応用できるかどうか、ということであった。 いかにして現実の問題を数学の枠組みに落とし込み、数学のゲームの中でそれを論じることができるか、そしてその結果を現実の問題に還元できるか、ということである。 そしてやっと、私たちは古代エジプト人の作った道の先に立つことができる。
応用学問を使えるということ
数学は紛れもなくあらゆる学問を支えている。 物理学などの自然科学はもちろんのこと、工学や社会科学などの多方面にわたって、数学はそれらの理論体系を支える基盤となっている。 逆に言うと、先人たちは数学というツールを使うことによって、様々な学問を発展させてきた。
したがって、大学でこれらの応用学問を学ぶと、必然的に数学を使うことになる。 すなわち、それらの応用学問を実際の問題に適用することが、数学を使うことに他ならない。 その点を踏まえると、先生の発言は「数学を使うこと、すなわち数学を用いて理論体系を確立した応用学問を現実の問題に適用できることは、大学の4年間では足りない」とも解釈できる。
そういった解釈に立ったとしても、あくまで肌感覚ではあるが、先生の発言は概ね正しいのではないかと思う。 もちろん、大学には卒業要件として研究を課しているところも多く、研究をしているという意味で、その応用学問を使えていると言えるかもしれない。 しかし、現実の問題を自分の専門分野の理論的枠組みに落とし込み、いくつかの仮説検証を繰り返しながら、その問題を解決まで導くプロセスを実際に経験することは、今の大学教育の4年間ではなかなか難しいのではないかと、大学という環境に7年半身を置いた人間として感じる。
知識を使えるということ
さらに言うと、このような「何かを使える」ということは、大学で学ぶ学問に限った話ではない。 世の中にあるあらゆる知識を活用する上でも、同じことが言えると思う。
知識は単なる情報であり、その情報自体も価値を持つかもしれない。 ただし、その価値を定義する上で、私たちはその知識がどれだけ社会や個人の生活にインパクトを与えるか、ということを主眼に置いてその価値を測ろうとする。 したがって、その知識の価値を考える上では、その知識そのものよりも、それがどのような問題に応用できるかという点が本質的である。 さらには、知識を応用するの個体(主に人間だったが、最近は AI も含まれる)によって、その知識の応用可能性が変わるわけなので、知識を保有する個体によっても、その知識の価値は変化すると言える。
知識の価値を考える上で、その知識を保有する個体の応用可能性が重要であるのであれば、どんなにポテンシャルをもった知識であっても、それを使える個体がいなければ、その知識は宝の持ち腐れとなるということである。 何かの仕事をしていると、しばしば「それを上手い具合に使って」という表現を耳にするわけだが、これはまさに、あなたはその情報にどれだけの付加価値を与えられるか、ということを問うているように思える。
知識の応用可能性を持つ個体は、自分以外にもたくさんいるという点も忘れてはならない。 つまり、知識を他の個体と共有し、自分にはない応用可能性を引き出すことも、知識の価値を高める1つの手段ということである。 昨今は企業や個人でも AI をどう活用するかという話題が盛んであるが、これは単にトレンドというわけではなく、知識の応用可能性を高める1つの手段として、AI を活用することができるからであろう。
10年越しに思うこと
高校の理系クラスに入ってから10年の月日が流れた。 その時の流れの中で、先生の言葉は私と共に様々な情報と接してきた。
当時、先生の声帯から発せられた空気の振動は、私の鼓膜を震わせ、聴覚神経を通じて私の脳に刻まれた。 そしてその情報は、定期的に私の思索の種となり、このように文に起こすという行動によって、価値を持つようになった。 この文自体は雀の涙にも満たない価値しか持たないかもしれないが、その言葉が私の奥底でどっしりと構えていることで、この文以上の価値を生み出し続けると信じている。
次は、私が誰かにその言葉を伝える番ではなかろうか。