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料理と実験

執筆日: 2026.01.12

料理と実験の共通点

もう3年以上前の動画だが、「ヨビノリ」で物性物理の巨匠である十倉先生と永長先生とのトーク動画を見ていた頃、十倉先生が「学生さんが来たら「君は料理が好きか」と聞いて、料理が好きならぜひうちに来なさいと言っている」とおっしゃっていたことが印象に残っている。

確かに、料理と実験は似ている。 (少なくとも私がやっているような物性物理学の)実験はある条件下での非測定物の応答をデータとして取得する一連のプロセスであり、そのプロセスには非測定物の準備(例えば試料の作製)や測定系の構築、測定の実行、データの解析などが含まれる。 一方、料理もまた、食材を調理して食事として提供する一連のプロセスであり、そのプロセスには食材の選定や下ごしらえ、調理、盛り付けなどが含まれる。 ここでの対応関係を見るに、非測定物や測定系は食材の選定や下ごしらえに相当し、測定の実行は調理や盛り付けに相当し、データの解析は調理した料理を味わうことに相当すると言えるだろう。

準備が9割

これまで4年以上実験研究をしてきて、実験は準備が9割だなと常々感じる。 もちろん最低限の準備が出来ていなければ実験を実行する判断は出来ないが、現場レベルでは準備が理想の水準には到達していなくても、ある目標の検証データを取得できる可能性があれば、実験を実行することもある。 そういうときというのは、実験に使用する試料が理想的でない場合が多く、何らかの欠陥を抱えているが、これが実験を行うにあたって致命的な欠陥かどうかは判断できなかったり、そもそも実験してみないとわからなかったりするような状況である。 そして残念ながら、そういうときに限って、実験を実行してみると、試料の欠陥が原因でデータが全く取れなかったり、データが取れても解釈が難しいものだったりすることが多い。

料理もまた然りである。 もちろん準備が終わって調理に入る段階も重要ではあるが、そもそもの食材の選定やそれらをどのように、どのくらいのサイズで切るか、どのように下ごしらえをするか、どのような調味料を使うかなどの準備段階での選択が、最終的な料理の味を大きく左右すると個人的には思う。 例えば、麻婆豆腐を食べたいのに豆板醬を切らしていて、まあいいやと豆板醬抜きで作ったとすると、なんとも言えないどんよりとした味になってしまい、想像していた美味しい麻婆豆腐にはならないだろう。

大学生で理系学部を選択して必修の実験科目を履修している学生や、実験系の研究室に配属されて間もない学生に伝えたいことは、実験で本当に重要なのは測定の実行ではなく、その前段階の準備であり、良い準備をすれば良い結果が自ずとついてくるということである。 また、実験の研究室で「なんかずっと実験準備ばかりしているな」と感じている学生には、それは全く正常なことだと伝えたい。 ただし、いつまでも準備ばかりしていてはお腹は空いてしまうし、角煮を作るのにどこ産のショウガを使うか熟考してもそこまで味に差が出るわけではないので、自分が目指す料理のクオリティを決めて、それを達成するために必要な準備が出来たら、思い切って調理に入ってしまうようなスピード感も同時に重要だとは思う。

全体のクオリティを上げるための努力

日常的に料理をするようになると、外食をした際にプロが作った料理を食べながら、これはどのように作ったのかを考えたり、自分が作るとしたらどうするかを考えたりするようになる。 といっても特に料理を頑張っているわけではないので、そこまで深いところまで気づく頭も舌も持ち合わせていないが、細かいことで感じるのは、野菜を切るサイズやばらつきのなさ、お肉の切り方などは、味そのものにはあまり関係しないが、口当たりを良くする効果があるのだなということである。 自分のために料理をする際は、野菜のサイズのばらつきはあまり気にせず切ってしまうことが多かったが、サイズのばらつきが少ないと、口に入れた際の食感が毎回均一になり、料理がすんなりと喉を通る感覚があるように思う。 このことによって、人は味により集中できるようになるし、逆に自分で作っていた際は、サイズのばらつきがもたらすストレスを無意識に感じながら食べていたのかもしれない。

こういう細かいところが全体に影響を与えることを理解し、それに対して努力を惜しまないことが、料理のプロが作る料理のクオリティを支えているのだろう。 この点についても実験に通じるものがあって、試料作製や測定系の細かい調整の1つ1つをロジカルに詰めていくことによって、最終的なデータのクオリティが向上することがままあるし、細かいところまで詰めているからこそ、データに異変が見られた際に、それがどこから来るものなのかを予想しやすくなることもある。

失敗したときの修正力

ある程度準備をきちんとしていても、料理の最中に少し失敗をしてしまったり、調味料を切らしてしまったりすることはある。 個人的によくあるのは、そばを茹で始めた後にめんつゆを切らしていることに気づくパターンである。 こういうときはいつも、醤油、みりん、砂糖、だしの素で作った擬似めんつゆで乗り切っていて、これでもちょっと求めた味には届かないものの、そばを食べたいという欲求は満たされる。

実験においても、準備の過程や測定の最中に何らかのトラブルが発生することはよくあり(というか1サイクルの実験研究の中でトラブルが1回も発生しないことはほぼあり得ない)、そのときの修正力が求められる瞬間も多い。 もちろんやり直しが出来れば良いが、1サイクルに何カ月もかけている実験研究では、やり直しが出来ないことも多く、時間や金銭コストの制約の中で、いかにトラブルを乗り切るかが求められる。 こういうときの修正というのは大抵の場合、(めんつゆというパッケージ化された調味料を、それを構成する基礎的な調味料に分解して考えたように)より低レイヤーの知識を活用して行うことが多く、こういったときに基礎知識やそれを使った応用の経験が必要になってくる。

どれだけ流れを描けるか

料理も実験もどちらもプロセスである。 プロセスにはそれが進んでいく流れがあり、その流れを想像できなければ、良い準備は行えず、したがって良い結果もついてこない。 カレーを作ると決まった時に、どういう食材が必要で、買ってきた食材をどのように切って、どの順番で鍋に入れていくかを、すぐにイメージ出来ることで、より美味しいカレーを作るための戦略を考えることが出来る。 なぜなら流れがわかっていなければ、その流れのどの部分に改善の余地があるかを見出すことも出来ないし、ある1つの工程のみを見ても、その前後の工程との関係性がわからなければ、それによって発生する制限についても考慮できないからである。 例えば私はカレーの辛さを調整するために唐辛子を追加で入れることがあるが、唐辛子をどのタイミングで入れるかによって、カレーの風味や辛さの感じ方が全然違ったものになる。

実験研究では、既に先人が作り上げた流れに対して、それに修正を加えて自分が検証したい仮説を実験的に示していく、という形で進められることが多い。 したがって、まず初めに全体の流れがわからなければ、どこに修正を加えていいかわからない。 なので、とにかく最初はその全体の流れを理解することを最優先に努めるべきで、そのために先輩の論文を読んだり、教員や自分とテーマが近い先輩に質問しまくって、まずは既に出来上がっているレシピを学ぶ必要があるわけである。 おそらくそれが、学部生時代に実験科目が必修になっている理由なのだろう。

研究室的な取り組み

東北地方には芋煮という郷土料理があり、毎年9月頃になると芋煮会というイベントを開催する団体が多い。 私が所属している研究室では、コロナ禍で中断されていた芋煮会を昨年度に復活させた。 芋煮会では研究室メンバーを2つのチームに分け、それぞれのチームが仙台風の味噌ベースの芋煮と、山形風の醤油ベースの芋煮を作り、それを教授陣に試食してもらい、勝者を決めるという形式で行っている(ちなみに昨年度は山形、今年度は仙台が勝利した)。 このイベントは研究室メンバーの交流を深めることを目的としているが、イベントを復活させた張本人としては、料理を通して実験研究に通じる様々な学び(失敗を含めて)を得ることも、サブ目的として考えている。 来年度は実験だけでなく、芋煮の完成度も上げられるように、きちんと時間をかけて準備していきたいと思う。