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人であることの限界と物理

  • 執筆日: 2026.01.18

小樽の空

私にはたまに話す少し歳の離れた若い友人がいる(時に二十台において4, 5歳の違いは大きく、希望を持って感じられる)。 ある小樽での出来事だが、彼を含めた4人で北海道名物でもあるジンギスカンを食べた帰り道、私と彼はまるでトランポリンの上に座っているかのように懐かしい感触の電車の座席に座りながら、物理学における最大の問題である「理解」について語り合っていた。

彼はおそらく万物を理解したいと思っていた。 そして私は、そんなことは出来ないと言っていた。

私にとって最も理解しがたいことは、なぜ私たちが物事を理解したかのように感じるのか、つまり論理そのものである。 私たちはいつだって心臓からポンプされる新鮮な血液をもとに、たまに心拍数の上昇を感じながら、目の前の難問をどうにか理解しようと試みる。 しかし、よくよく考えてみると、その根源的なところには、必ず何かの無視できない仮定または前提が存在している。

ニュートン力学では時間や空間という概念は当然のように仮定されているし、量子力学であれ、我々が夢見る量子重力理論であっても、やはり何かしらの物理的なパラメータが前提の上で、理論が構築されている。 それが意味することはすなわち、何かを認知すること、信じることがこの世の始まりということなのだと、当時の私は思った(今現在どういう立場であるかはわからないが)。

これが私と仏教の哲学的側面との接点の始まりであった。 仏教では「空」という概念があり、これは全ての物事は相互依存的(それは「縁起」と呼ばれる)であり、独立して存在するものは何もない、という考え方がある。 別に私は仏教という宗教を信仰しているわけでもないし、その宗教的、そして哲学的な側面を全て理解しているわけではないが、物理学における「理解」の限界を考えたときに、この「空」の概念は何かそれと通じるものがあるように思えた。

だからこそ、何かを生み出すこと、つまり空の状態からそこに色を与えることが、人間が思考を始める上で重要なことであると思う。 そしてそれを生み出す行為が、研究者として求められていることだと思う。 新しい概念を生み出す、新しい考え方を提案する、こういった行為が人類にとって考えを巡らせる契機を与え、(その有益性は一旦無視して)何らかの変化をもたらすことになると思う。

私は彼に自分自身を映した。 穢れのない美しい何かがあると期待したあの頃の目と同じものを期待した。 そして、それが保たれ続けることを願った。 納得のいかない彼の顔を見ながら、私は自分も彼もこの雪から必死に身を守った針葉樹たちと一体になろうとしている気がした。

どんなに追いかけても手の届かないもの。 それが小樽のガラスのように透き通った、私たちを無性に惹きつけるものかもしれない。 手が届かないからこそ、私は人という箱に囚われたことを感謝するのかもしれない。

東京の色

私は東京という白が200色以上あるであろう場所で育った。 それはもうまぶしく、どこを見ても色で満たされていた世界だった。 人々は自分の色を楽しみ、時に他人の色を羨み、時に他人の色を批評した。

そんな環境で育ちながら、私は自分の色が自分ではない誰かに塗られている感覚を味わった。 そして、自分で自分の色を塗ることすら許されない人たちをこの目で見てきた。 若い私たちにとって恐ろしいほど巨大なペンキ塗りが、静かに刷毛を振り回していた。

そんな光景を目にしながら、いつだって決めるのは人だという感覚を持っていたのかもしれない。 そしてそれが、どんなに滑稽なことかと思いながら、私もその一員なのだという逃れられない事実を受け入れた。 そしていまは、頼りのないこのステージの上で、ピエロのようにタップを踏んでみたいと思ってしまっている。