草木生い茂る森の中で
- 執筆日: 2026.01.30
時刻が0時を過ぎ、今日がとうとう帰国日になった。 現在私は一度生身でその生活感を味わってみたかった国であるシンガポールに来ていて、その4泊5日の旅行が終わろうとしている。
シンガポールといえば、Marina Bay Sands や Gardens by the Bay などの観光名所が有名であり、Sentosa 島のようなリゾート地も人気が高い。 もちろん今回もそういった場所には行っては見たものの、(まだ終わっていないが)私が今回の旅行で最も楽しみにしていて、想像通り最も印象に残ったのは、MacRitchie Nature Trail でのトレッキングだった。
熱帯の十分な雨と日光を浴びて育ったほとんどの幼稚園児を包み込めるような葉を持った大木に囲まれながら、ただただ前に見える道を歩いた。 一周約11 km のこのトレイルは、私に十分な時間を与えてくれると思っていた。 私はこの自然の中で、自然と一体になりたかった。 自然と一体になるという状態がどういう状態であるのかを言語化することは簡単ではないが、個人的には頭の中が空っぽになり、ただ風が吹いて葉が揺れるように、自分も存在している状態であればよいと思っていた。 しかし、結局今回はそういう状態になれなかった。
自然に帰ることは、物理をする上でも大事だと数年前から思っていた。 物理学は自然法則を理解しようとする学問であり、物理学を理解しているということは自然を理解しているということである。 しかし、私にとって最大の謎は、理解しているとはどういう状態かということだった。
人間は論理を武器に、この地球で支配的な種になったと自負なされている。 しかしながら、論理が成立しているということは、一体どういうことなのだろうか? 論理というものには、必ず何かしらの前提が存在している。 もしくは無定義語と呼ばれるような、言語を構成する上で説明できない基本的な要素が存在している。 つまり、理屈を遡れば、必ず何かしらの「信じる」行為が存在していることになっているような気がする。
では、この「信じる」行為とは一体何なのだろうか? その答えはわからないが、私はこれが自然そのものと関係しているように思えてならない。 なぜなら、人間自体も自然の一部だからである1。 我々は自然の一部でありながら、自然を理解しようとしていて、そういう意味では奇妙な生き物である。 逆にその奇妙さを利用するのであれば、人間の自然味を最大限に活性化する、つまり自然と一体になることで、この「信じる」行為をより確かなものに出来るような、そんな気がしていたのである。
しかし前述したように、私は高慢な人間であり続けた。 疲れた。 この景色すごいな。 足腰が痛い。 このサルたちは何でわざわざ人間の近くに来るんだろう。 いまこんなことしていていいのかな。 次の実験で上手くいかなかったらどうしよう。 最近始めたあれの見通しがあまり良くないな。 暑い。 まだあの人にお礼のメッセージ送ってないな。 こういった雑念と戦いながら、ついには11 km のトレイル一周を終えてしまった。
幸せって何だろうか。 ある人が言ったその場面が、5回くらい生い茂る草木に映った。 そしてそれに答えているありもしない自分の記憶がいくつか続いた。 その問いに一生懸命論理的に答えようとする自分もいたし、自分にとっての幸せをちょっとうざったく語っている自分もいた。 でも最も好きな自分は、「わからないな」と突き放す自分だった。
何を考え決断しようが、大きな葉が風で飛ばされ、ひらひらと地面に落ちていくのと何も変わらないのかもしれない。 だからこそ、そのアクロバティックな揺れを楽しみたいと私は思った。
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私は人間が起こした気候変動や環境破壊なども自然現象だと捉える立場である。ただし、それが"良いか悪いか"はどういう評価基準を置くかによる。 ↩